2013/12/14

月一回のブログ。2013年最後のご挨拶。

Leica M3 Summicron 5cm/f2

今年も終わりますね。

毎月1回、多くて2回しか更新しない写真ブログも今年最後のエントリーです。
写真を見てくださった方、文章を読んでくださった方、コメントをくださった方、今年一年ありがとうございました。

フィルムは今年も入手できて、現像にも出せました。
フィルムの無くなる気配がしないので、ライカを二回修理に出しました。
ありがたいことです。

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今年は街でライカを持っていると、声を掛けられることも多くなりました。
ライカと知って声を掛ける人、全く何なのか分からなくて声を掛ける人、いろいろな方と出会いました。

四角くて穴が開いてて後ろに画面が付いていて、それ以外の似た何かは分からない。そんな時代が来つつあるようにも感じられます。

フィルムがデジタルがと騒いでいるうちに、どうしてあの人は箱を持っているんだろうだなんて、言われる日すら近いかもしれません。


カメラ付きのウェアラブルデバイス。
それはスナップショットのスタイルを一変させ、ついでに過剰な撮影禁止と盗撮騒ぎに終止符を打つことになるかもしれません(だから最後の花火は一番大きい)。
ネットがSNSに閉じていく時代、それは都会的人間関係から田舎的人間関係へ、プライバシーからノンプライバシーへ移行していくことを意味しています。だからこのデバイスは大きな変化をもたらすように思えるのです。

通行人の顔面を至近距離で撮るだなんて簡単なこと。
「ok, glass. take a picture.」

ノーファインダー撮影、もういりません。カメラを向ける勇気、無くても結構。

ちなみに顔から個人を識別することは....データが開放されれば、いつでも。

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デジタル写真なら手間もかからないしWEBに公開するのは簡単、でも今みんなが見ているのはYouTubeかも。

いろいろな世界があって、いろいろなレイヤーでいろいろなことが変わっていきます。
そんな中、性懲りも無く伝統のスナップ、レガシーなフィルムと、古いライカ。おまけにブログで更新は月1,2回。

そういうブログを見つけて、なんだこういうヤツがまだ残っているじゃあないか、1人いるなら30人はいるだろう、そんなふうに安心してデジタル化のパニックから抜け出し、気が楽になった人がいたら良いなと思っています。

楽しもうよ。

2013/11/03

ライカ、今年二度目の修理

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

ライカが壊れました。
今年になって二度目で、二度ともシャッターが壊れました。

旅先でさあ撮ろうというという時に分かった故障で、為す術もありません。

修理といえばいつもの修理店。そこには純正部品のストックがあります。
ライカのシャッター幕は、幕とリボン、それと金具で構成されています。この金具はもう新品が無いので、たいていは付いているものを再利用する形でシャッター幕の交換となりますが、ここでは全て取り替えてしまいます。どことは言いませんが、一番信頼している修理店です。

しかし今回は、あえて冒険して他の修理店を試してみることにしました。

ダンボールに詰めて発送すること約3週間、同じダンボールには丁寧にビニールで包まれたライカがありました。

ビニールから取り出すと、独特なグリスの匂いが強く漂います。
以前使っていたバルナックライカの匂いと同じで、懐かしい感じがしました。

巻き上げレバーを親指で押すと、少し固いという印象を受けました。それはほんの些細な違いですが、ライカは生きているという良い証拠だと思います。

シャッター音は少し金属感のするものとなり、「柔らかい」と形容されるようなものとは程遠いものです。多くのライカがこのような状態で流通しているとしたら、ライカの良さというのはかなり減退しているのではないかとも思えます。

良い修理人がいなくてはライカも良いカメラにならないのです。
定期的にオーバーホールへ出すことも、大切ですね。

2013/10/20

「いい写真」考

Leica M3?(失念)
「いい写真」という考え方が存在していて、これを指す内容は、人によって様々に変わります。

例えば、写真を撮っている/撮っていない人という、一番根本的に興味がある人/ない人で分けてみると、”写真を評価しているのか、写っているモノを評価しているのか”という違いがあります。


猫の写真。かわいいですね、存在自体が神様からのギフト。どんな風に撮っても絵になります。

子供の写真。はにかむ笑顔、澄んだ瞳。どんな風に撮っても絵になります。

外国の写真。カッコイイですよね、まるで映画、どんな風に撮っても絵になります。



写真を撮っていない人は、上記が無条件で100点満点になります。

何故なら被写体が素晴らしいからです。



ところが、写真を撮っている人は、これを減点していきます。



猫の写真。マイナス30点

子供の写真。マイナス50点

外国の写真。マイナス100点


写真を撮っている人は、それぞれ130点、150点、200点を獲得しないと、評価しないのです。
すなわち、被写体ではなく、写真自体を評価します。

被写体に頼って、「ズル」をしてはならないのです。


そうすると、興味のない人が見て 「どこが?」 という写真が完成します。


写真は他人に伝えるための道具の一種ですので、気軽に「いいね」を貰うことだけにフォーカスすると、それは誰が撮っても同じ写真になります。やがて統計処理で抽出された人気写真や自動生成されたコラージュ写真が流行るようになるでしょう。それでは個人が写真を撮る必要がありません。

表現をする写真家ならば、むしろ孤独で良いのではないかと最近思うところはあります。
上手い下手はどうであれ、他人と違うから自分です。

追記:
感じの良い写真が良い写真、良い定石写真を撮ることが良い写真なら、その他写真は何になるでしょうか。
センスとスキルと一緒くたにすることは、写真趣味の飽きへ繋がるように感じます。
孫が大好きなおじいちゃんが、スタジオ撮影のテクニックを駆使して孫を撮影し、photoshopで大胆な加工をしたところで、孫を思う気持ちが心底満たされるかといえば、どうだろうかと思うのです。何を求めるかに依りますけれど。

2013/10/05

フィルムは減って、価格は高騰。

Leica M3 Summicron 5cm/f2 ILFORD DELTA 400
いつものようにフィルムを買いに行くと、値札の表示に違和感を感じました。

前回買った時よりも、100円ほど値上がりしているようです。

通貨や船運賃の要因もあるでしょうが、需要減が根本原因かとは思います。


消費者が買わないものを企業は売れません。
だからフィルムや印画紙を使わずに「無くなっていく」と嘆いても仕方ありません。

どこかでこんな話を聞いたことがあります。

とある小料理屋のおかみさんが、お店の売上が立たず借金が増えるので、お店を畳むことを常連客に伝えました。
常連客はとても残念がり、「どうかやめないで欲しい」と口々に言いました。
おかみさんはその言葉に勇気付けられ、しばらくお店を続けようと決意したのです。

しかし、お店に客は来ません。やめないでと言った客もロクに来ませんでした。

とうとう、おかみさんの借金は返済できる限度を超えてしまい、お店どころか何もかも失ってしまいました。


楽しいことにはお金を払わなくてはなりません。

ディズニーランドに入場するには入場料を、リッツカールトンに泊まるなら宿泊料を。
ランボルギーニVenenoを所有したいなら3億6500万円を、サンマルクでアメリカンを飲むなら260円を。

払わなくては楽しめません。それを対価と言います。
現在のフィルムの販売価格が、フィルムを愉しむ対価なのです。

フィルムの愉しみが増していく、それは良いことなのです。
私は益々気持ち良く、フィルムカメラを愉しみます。

2013/09/15

逃げることと見切ること

Leica M3?

逃げることと見切ることは、同じ場面で使われながらも意味が全く違います。

前者は責任を取らない人が他人に浴びせる言葉で、後者は責任を取る人が決断した際の行動です。

配偶者の暴力から'逃げる'とは、命を守るための行動。
下落する保有株を売り'逃げる'とは、資産を守るための行動。
人間関係の悩みから'逃げる'とは、質の高い人間関係を作るための行動。


相手を想う気持ちがあれば、後ろめたい言葉は出てきません。
逃げるなと言って見限られて、これに責任を取れる人は居ません。
手を差し伸べられなければ、他人を正すにはあまりに人間が小さ過ぎます。


逃げるという言葉以外に、見切るという言葉以外に、適切な表現は行動しかありません。

その結果が正しいかどうかは、死ぬ時に誰に看取られるのか、誰が葬式に来るのかで決まります。
逃げるな逃げるなとただ煽るだけの人間が、葬式に来て何が言えますか。来なくて、結構でしょう。

自分の人生の価値を、自ら貶める必要はないのです。

2013/08/24

今年の夏は二度と繰り返されない最後の夏

minolta AUTOCORD RG

この夏ももうじき終わります。

秋の訪れを望もうと望むまいと、最後の夏は終わっていくのです。

この夏は、永遠に訪れません。どうか日々の思い出作りを。

2013/08/10

被写体との関係構築

Leica M3?
過ぎ去った時間は二度と戻ることはありません。
どんなにカメラが進化しても、流れる時間は戻せないのです。

レンズを通して、信頼されてもされなくても、誤解されてもされなくても、傍観者になっても共犯者になっても、一度噛み合ったその関係は弁明の余地もなく、時間と伴に流れていくのです。

失敗は許されないという意味ではありません、ただただ、時間は流れていくのです。


君たちを撮っていたのでは、ないんだけどな。

2013/06/29

ライカの話。一眼レフからライカへ。

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

初めてライカを買ったのは、大学生の時でした。
なんでライカにしようと思ったかはもう忘れてしまいましたが、アメリカにある中古カメラ店から通販で購入したのでした。

その時買ったのは、ライカIIIf。

バルナックライカと呼ばれるクラシカルなタイプのカメラで、ダイヤルが2つも付いていて、ファインダーは構図用とピント合わせ用がそれぞれ独立してこれも2つです。

ファインダーが50mm専用なので、レンズも50mmのものを後で買いました。
ロシア製のインダスター22という、エルマー5cm/f3.5のような形をした5000円のレンズです。


そうして手に入れたバルナックライカで写真を撮ってみて、だんだんと気付いたことがあります。

それは、ファインダーを覗いても思い通りにはならないということ。


これには2つの意味があります。

1つは、ファインダーの構造自体、正確なフレーミングをすることができないということ。
一眼レフのように、ファインダーはフィルムに写るのと同じ像を見ているのではなく、別の窓の景色を見るようになっています。被写体が近ければ近いほど、レンズとファインダーが離れている分だけズレてくるのです。

そしてもう1つは、私の場合はファインダーの中でいくら工夫をしても、良い結果にはならなかったということ。
ズームレンズを使って切り取ってみたり、被写体を斜めに納めてみたり、ボケを使って浮き立たせてみたりしても、あとの祭りなのです。
なぜなら、自分の眼で「良い」と思うからカメラを構えたのに、ファインダーでそれとは違う景色になっていたとしたら、良いと思うところはまた違ってしまうからです。


一眼レフカメラは、ファインダーの中で景色を作っていくのに向いているように思います。
スクリーンが作業場で、そこに投影された像が作成中の作品なのです。

一方ライカは、正確にいうと50mmの画角とレンジファインダーは、見たままを捉えるのに向いています。
本当にそれだけで、それだけのことを良くするためのカメラなのです。

ありのままを捉えるカメラがライカで、ありのままを捉えたいと思う気持ちを良く叶えてくれます。
「ありのまま」なので、良い意味でも悪い意味でも誤魔化しが効きません。

本当にそのまま、ありのまま。自分の眼差しがありのままです。


2013/06/13

景色を感じる

Leica M3??

ある景色を二人で見て、それぞれがどのように思うかは人それぞれにお任せする他ありません。

小説のように豊かな言葉によって深い世界に入っていく人もいれば、耳に感じる音のリズムで世界を見る人や、風や匂いに触れて心を響かせる人もいます。

耳で感じる人、目で感じる人、肌で感じる人、いろいろな人がいるから素敵な世界です。

2013/05/19

フィルムカメラの修理とコミュニケーションについて

Leica M3, Summicron 5cm f2
今年の初め頃、いつも使っているライカに、右側が黒くボヤける現象が出るようになりました。
シャッター周りの経年劣化で幕動作に支障が出たようです。

そこで私は、いつもお世話になっている修理店でライカを診てもらうことにしました。
そこは技術に定評があり、そして、持ち込んだライカをなかなか褒めてくれない修理店です。

私の場合も例外なく、買った店のこと、ライカの状態、私の使い方、その全てに忌憚無き評価が下されます。
他の方の話を耳にする限りでは、ひどく落胆したり、憤ったりする方もいらっしゃるようです。
大切にしてきた愛機が「あちらこちらが無事では無い」と言われるのですから、その心情もお察しします。

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この修理店の店主を理解するためのたった一つのキーワードは、「職人」です。

職人になると、修理痕一つで色々なことが読めるようになるようです。
どこの誰が、どのようなレベルの人が、どんなことを考えてどういう修理を施したか。その結果、どのようなことが引き起こされるのか。
それはライカ本来の性能を知っていて、それが正確に100%引き出せないことも知っていて、限りなく100になるよう仕事をしながら、それとは遠い仕事を目にするということ。

100%を超える期待をしばしする顧客に対して、職人としてのプライドと責任感はジレンマとなります。

これは本来の100%ではない、しかし今出来る限りの100%はここまで出来る。そのことを正確に伝えようとすると、職人らしい忌憚なき台詞として表現されるのです。


私は、職人を信頼をしています。
また、職人が魔法使いでないことも知っています。
あるべき姿を目指して仕事をし、100%に至らなかった部分を包み隠さず報告することに尚更信頼をしています。

それが、何を言われようとこの修理店を利用している理由です。

商売として愛想が良くても機械は良くなりません。機械にとっては技術が全てなのです。
そして、機械に対して愛想良く話を出来るのが職人なのです。

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本日の写真は、とある店で買ったレンズで写したものです。
この写真で絶対にピントが来ないと分かり、いつもの修理店にて同じ型のレンズを買いました。
信頼とはこういうことなのです。

2013/04/06

桜が散るように

Leica M3 Summicron 5cm/f2 IFORD DELTA 400

今年も桜を撮らずに桜は散りました。


毎年春がくると、人は桜に惹かれます。

綺麗な花は他にもたくさんあるのに、桜だけには特別な魅力があるようです。
これはどうも、人は桜でないものを見ているのではないかと思うことがあります。

美しい桜を見ているのではなく、美しいと感じる心を見ているのです。


「こんな美しい桜、是非写真に残したい」

そう思って撮った桜の写真はあまりに下手糞、これは良く聞く話です。
それは写真の上手い下手ではなく、撮りたかったものが撮れていなかったからでしょう。

本当に美しいと感動したのは、美しいと感動した自分の心なのです。

だから撮った写真を指差して、

「本当はもっと綺麗だった」
「写真では表現できないくらいすごかったんだ」

と誤魔化してみても仕方のないこと。何故ならそこに心は写っていないからです。


言葉で「こんにちは」はすぐに言えるけれど、心震える「こんにちは」を簡単に言うことはできません。
カメラがどれだけ進化していても、シャッターを押すだけで心を表現できる時代には、まだ少し遠いです。

2013/03/16

幼い日の記憶、将来の夢

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA400
ときどき、両親が撮ってくれた幼い頃の自分の写真を見ることがあります。
アルバムをめくっていくと、ふと、幼い頃のことを他人のことのように思い出すのです。

本当の自分は。。。

すべての人にとって、写真が勇気を与える存在でありますように。

2013/02/17

見ているけれど見ていない。

Leica M3 , ? 50mm   

旅行が好きで、景色の良い観光地へ良く出掛けます。

つい先日も、海沿いの絶壁が見事なところへ観光に行ってきました。自分の見るものありのままを感じてみようと、家にカメラを置いて。

とても綺麗な場所でした。遮るものは何もなくて、崖の上から大海原が見渡せて、訪れた人は各々に、ゴツゴツとした岩肌の上を歩いたり、そこにある灯台を眺めたり、吊り橋を渡って途中で真下を覗きこんだりしていました。

そうして順路通りに歩いて行くと、「撮影スポット」という立て札があり、そこからは松の林が開けた場所から吊り橋と海が見えていました。ここが良いと感心して写真を撮ってゆく人もいれば、何も言わず立ち去る人もいます。私はどうだったかというと、良い景色に思いませんでした。

それは感覚がズレているとか、迎合しないのがカッコイイとかそういうことではなくて、「良い景色」は一人一人にあっても良いということを感じた出来事でした。撮影スポットを設置した人は、ここが素晴らしいと思って設置したのです。

そう考えてみれば、「良い景色」は良い景色とは限らないし、「どこが良いの」という景色が良い景色にも成り得ると言えます。

眼で見た空間を解釈して表現することで、どんな素晴らしい景色かを認識することができます。写真はそれを視覚的に表現することを試みたもので、その時の想いを他人に伝えたり、またはもう違う感情になっている一秒先の自分に対する記憶になります。

写真なんて撮らなくていい、そう思ってカメラを置いてきたのですが、どうやらそういうことではないことが旅の教訓となりました。例えどんなでも、表現がなくては見たことにはならないと感じたのです。

2013/01/23

フィルムカメラのリズムとルーティン

Leica M3, Summicron 5cm/f2


今、私が使用しているカメラは、フィルムを使うライカと50mmのレンズがそれぞれひとつだけです。

そのライカは古いモデルで、フィルムを巻く時は二回レバーを操作します。

一枚撮り終えたら、親指でレバーを二回巻き上げ、
一枚撮り終えたら、親指でレバーを二回巻き上げ、
。。。

写真を撮ると無意識に親指が二回動くくらい、私はこのリズムに体が慣れています。
このライカの操作がとても体に馴染んだため、他のカメラは全て手放してしまいました。


「このカメラは、撮影するために、二回もレバーを操作しなくてはならない。」


デジタルカメラ全盛のこの時代、明らかに無駄と思えるこの"儀式"ですが、もしも撮影の"リズム"を生み出しているとすれば、これは全く重要な意味を持つようになります。

「体にしっくり来る」とか「これをしないと調子が出ない」とか、具体的には野球選手のイチローがバッターボックスに入った時にやるあの仕草は、その行動と結果に何ら関係がありません。非科学的で、無駄な儀式のようにも見えるでしょう。

しかし、事をなすのは人間ですから、それぞれ繰り返される一連のリズムの中に、自分がどう入っていくかが重要になります。

そのリズムを作るための儀式が、いつもの決まった習慣となっていくのです。

このような習慣的なリズムはルーティンと言って、アスリートはこのルーティンを取り入れ、自己パフォーマンスの向上に役立てています。
一方、企業でルーティンと言えばコストのことであり、自動化や省力化によって減らすべきものとされていることが多いように思います。

フィルムカメラにはルーティンが多すぎます。けれども、それが撮影に良いリズムを与えているとしたら、単なる無駄とは言い難いのではないでしょうか。

何より趣味ですから。

2013/01/05

時を超えて、モノクローム。

Leica M3 Summicron 5cm / f2
いつ撮った写真か分からないけれど、その日寒かったこと、日差しが暖かかったことを、モノクロの写真ははっきり思い出させてくれます。

写真に色が無いなんて情報として足りないことだらけなのに、どうやら想像力が記憶以上の情報を盛ってしまうようです。

記録と記憶は違うけれど、それにしたって記憶の曖昧さといったらありません。その日寒かった証拠、日差しが暖かった証拠、何も無いのです。

「過去は変えられない」なんて人は言うけれど、過去なんてわけなく簡単に変えられてしまいます。

変えたくないから変わらないだけで、変えたければいつだって変えられる、それが過去の記憶なのです。

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