2014/06/25

旅とカメラの徒然

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

先日、久しぶりに旅へ出掛けて来ました。

久々の旅行ということもあって出発の数日前からウキウキしていて、何を持っていくか悩んだり、旅支度を済ませた荷物を並べてはしゃいだり、SNSへその荷物の写真を掲載したりして楽しみました。

カメラのことには一切触れませんでしたが、ある知人はそこに小さく写るライカM3を見つけるや否や「デジタルカメラを買うように」とコメントをくれて、その他の人は「近くに来たら連絡をしてほしい」とか「良い旅であるように」といったコメントをくれました。
人によってフォーカスを合わせるところが様々なのは興味深いことです。


私は旅のお供に一台のカメラを持っていきます。
このカメラは見た景色を記録として撮るモノではなく、見た景色をどう表現するかという「遊び」のためのモノです。
観光名所や絶景は滅多に写真に撮りません。
それは、列車の移動時間に食べるお菓子やホテルで夜を明かすためのマンガやボードゲームのようなもので、有っても無くても困るものではなく、しかし有れば楽しみが増えるようなものです。
絶景や歴史的建造物を前にお菓子を頬張ったりボードゲームに興じないのと同じように。


そういえばちょっと前に、「旅先で写真を撮ると記憶に残らない」というニュースが話題になりました。
それは、「カメラ=記録装置」というのがパラダイムの人に関して見れば、記憶として覚えておく必要がない、というただそれだけの話ではないでしょうか。
社会科のテストのように、あらゆる出来事を暗記してあれば良いというのであれば、私は赤点でも構いません。

何もわざわざ旅先まで行って、定番の撮影スポットをファインダー越しに見たいわけではありません。
私が撮りたいと思うのは、旅で感じた景色の表現です。
と、言うと仰々しいですが中身は極めてラフな考え方で、観光地らしい写真や上手な写真といったルールも無く、旅先で食べたコンビニのメロンパン美味しいと感じたらメロンパンをそう撮れば良いというくらいのものです。
それが上手くできたら嬉しいという「ただの遊び」でしかありませんが、これはその旅の印象深い出来事ばかりを写すことになります。


こういう「遊び」を余裕ある心で楽しめることは誠にありがたいことのように思います。

猛烈に過ぎ去る時間の中で、どのように生きたとしても、人生の終わりは平等です。
楽しいという時間、苦しいという時間、そうした"感情をした"時間を積み重ねた最後には、思い出しか残りません。

これからたくさん生きて、日々衰えていく脳に多くの記憶が詰め込まれるなかで、写真に残る良き日々の一瞬はどのような気持ちを呼び戻すでしょうか。

人は旅をすると、写真を撮ったり、絵を書いたり、詩を読んだり、日記を付けたり、そんなことしないよという人も、土産物(置物)を買ってきて床の間に飾ったりします。
それは一体、何のためなのでしょう。

2014/06/11

フィルムカメラが消える時

Leica M3, Summicron 5cm/f2

フィルムでも、デジタルでも、
確実に、間違いなく消えてなくなるのは、テクノロジーではなくて、私達の命です。

命が終われば、フィルムカメラも、デジタルカメラも、何もかもが終わります。
あと何年でフィルムが終わるという不安も、来年出てくるデジカメへの期待も、終わりです。

フィルムの保存性、アーカイバル処理、HDDへの保存、クラウドバックアップ、全て、無くなります。

読み出す装置である肉体と精神が無くなると、画像を読み出せなくなるのです。だから、全て、無くなります。

自身のことだけを考えれば、何かを残そうというよりは、一体、私達はこの人生のなかで、どのような気持ちを得ようとするのか、なのです。

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