2015/11/11

ライカを捨てた

Leica M3, Summicron 5cm f2, ILFORD DELTA 400

タイトルの通り、ライカは今、手元にありません。

およそ10年、IIIf、IIIa、M3とそれぞれ50mmのレンズを付けて使い続けてきましたが、そういうものは無くなりました。カメラは捨てました。ライカは捨てました。写真は捨てました。


ライカというのは不思議なカメラで、とにかく高価で、特別で、終いには、何も面白くありません。

それはまるで、冴えない平社員が高級料亭に行って、紅の模様の入った美しい毬のような食べ物をかじり、「きっと、お金持ちには、美味しいんでしょうねぇ...」と言った時のような、高い評判への期待と実際の体験とのギャップに苦しむカメラです。


ライカは、ただのカメラです。そして、「ただ」を極めたカメラです。

一眼レフのようにボケ味を確認したり、正確なフレーミングをしたりなんて出来ません。
ファインダーの中でいくら工夫しても、目の前の現実をいくら誇張しようとしても、それは無駄であることを先ず叩き込まれるカメラです。※「ライカの話。一眼レフからライカへ。


ライカは、目の前の、二度と戻ってこない現実と向き合うカメラです。

撮った後でフレーミングを変えたりしても写真は強くはならないし、
HDRで現実を超えて世界を綺麗に造り替えるというのなら、電極を脳に刺してヨダレを垂らしながら鑑賞すれば良いではありませんか。※「説明すればするほど、考えることを諦める


ライカは、撮った以上のことは何一つしてくれない素直なカメラです。

ライカで撮った写真がつまらないとすれば、それは見ている景色がつまらないのです。
ライカは目の前の景色をただ切り撮るだけで、一切創造的ではありません。

じゃあ、それは、防犯カメラやGoProの映像から切り出した一枚の画像であったり、NARRATIVE CLIPで収集した画像と、何が違うのですかという話にもなります。

ライカはそれ自体、そういう機器と同じような役割を担いますが、決定的に異なるのは、人の意思決定を、とりわけ、瞬間に対する意思決定を介在させなければ撮影することはないという点が大きく異なるカメラです。

そうであるなら、カメラはライカでなくても良い、ということです。

2015/08/20

東京五輪エンブレム、佐野研二郎のデザインとネットでの反応に想う事


佐野研二郎氏の五輪エンブレムが、悪い方向に話題となっている。

その話題の中で、デザインよりも気掛かりな事がある。


それは、本件に便乗した人・事柄、例えば、

あのデザインを誰もが作り出せるようなプログラムが公開されたり、
有名人が発表したデザインが絶賛されたり、
エンブレムをパロディにしたコンビニのおでんPOPを、使っていいかオリンピック組織委員会に連絡したり、

これらに対して、


「こっちの方が良いね!」

「わっはっは!これは愉快!」

「座布団3枚!!」

と喜んでいるネット上のコメントが多いことだ。



非常に気掛かりである。



「あんなものは誰でも出来る」と、思っている節がある。

ここでは、誰でも出来て構わない、実際に出来るかどうかは、問わない。
実際、カメラや写真だって、今では誰でも、それこそ、猫ですら写真家として活躍しているくらいだから、問わない。


ただ、考えたいことは、


あなたが事業主なら、
暇そうにしている正社員やアルバイトが、事業経営を揶揄しながら真似事をしているのに対し、取り巻きが

「こっちの方が良いね!」

「わっはっは!これは愉快!」

「座布団3枚!!」

と騒いでいたらどう感じるだろうか。



あなたが営業の仕事をしているのなら、
声の甲高いニートやひきこもりが、営業を揶揄しながら真似事をしているのに対し、取り巻きが

「こっちの方が良いね!」

「わっはっは!これは愉快!」

「座布団3枚!!」

と騒いでいたらどう感じるだろうか。


あなたが専業主婦をしているのなら、
舐め腐った旦那や未婚女性が、家事を揶揄しながら真似事をしているのに対し、取り巻きが

「こっちの方が良いね!」

「わっはっは!これは愉快!」

「座布団3枚!!」

と騒いでいたらどう感じるだろうか。



日本人の美徳とはなんだったのだろうか。

そんなものは、はじめからなかったのだろう。



そんなことは関係なく、今日も黙々と働く人達が居る。
敬意とは何か、今一度考えたい。

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

2015/05/19

カメラの終わり

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ilford delta 400

最近はライカを、持ち出すことは少なく、
ただ持っているスマートフォンのカメラを使っています。

それで十分であったり、そちらの方が早かったりするから、慣れたら何も思うことはありません。

デジタルカメラの購入も考えましたが、フィルムカメラが廃れていくようにして、その延長線上にあるデジタルカメラも廃れていくように見えて、所有することにワクワクしなかったのです。

世間では、GoProはもう当たり前のように使われていて、
最近何かと話題になる「ドローン」は、自分の近くを飛んでセルフィーを手助けしてくれるようになったし、
まだ商用にはなっていないものの、ドローンがライトやストロボを積んで、自律飛行しながら最適なライティングをするシステムも構築されています。

一日中、一定時間ごとに撮影する小さなライフログカメラが登場し、
そして、GoogleGlassのようなデバイスの登場で、ただウィンクするだけで写真が撮れるようになります。

また、写真を撮らなくとも、インターネットにはありとあらゆる写真にアクセスが出来ます。
Google Photoにアップロードすれば、どんな傑作もディープラーニングの肥やしです。

箱を手に持つスタイル、上手く撮ってやろうというスタンスが、終わりを迎えつつあるのです。

カメラを持つとは、写真を撮るとは、一体全体、何なのでしょうか。

2015/05/08

お金は愛を。。。

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400


お金がないから恋愛ができないという話が、
収入やら日本経済やらグローバルやらの話に飛躍するのは、お酒の席ではよくあることです。

この構図は、お金というパラダイムの中で話が堂々巡りしている、ということになります。

では、

高収入、一流企業、おしゃれなカフェ、高級なディナー、そういうお金に関わるものを男から抜いていった時、その男に何の魅力が残りますか?

「そんな悲しいこと言わないでください」と、ある女性は言いました。
何故悲しいのでしょう?お金が無いと、魅力が無い、だなんて、誰も言ってませんよ。

2015/03/22

フィルムの値上げに乗じて「何枚撮るか」を考えたい

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

再び、銀塩感材の値上げがアナウンスされたようです。

そうなればいつものことですが、特定のフィルムが店頭から消える、つまり、安いうちに買い貯めする人が出るという状況が発生しがちです。

ついでに、いっそデジタルにしようかという迷いを発露する人も出てきます。


たくさん撮ることは重要なことだと知っています。
しかしながら冷めた眼で見た意見を言うと、

コストを気にしなければならないような写真ばかり撮っているということですか?


写真が一瞬を切り取る媒体である以上、動画の如く何枚でも連写していればいいのでしょうか?
という事を、今敢えて問います。


関連:


2015/02/10

もしもブログやSNSが無くなったら、写真を撮る人はどれだけ残るだろう。

Leica M3, Summicron 5cm/f2, ILFORD DELTA 400

予防線を貼るわけではないが、

私の文章は深く深く、地面に穴を掘るかもしれない。
その穴の奥底にはどんな物があるのかと、探しに入って来てくれる人もいるが、
そこには何も用意されていないことを、予めお伝えしておくのが親切かもしれない。


さて、表題は前々から、前々、どころじゃなくインターネット黎明期をちょっと過ぎたあたりから、自分自身に対して疑問を感じていたことを、あざとい表現にしてみたものだ。


写真の発表場所としては、個展会場よりもインターネットの方が圧倒的に見てもらえるように思う。

写真は見せるための手段の1つであるし、特に近年では、記録というより、表現というより、共有という価値に軸が置かれることが多い。
これは、技術や世相などいろんな物事が一回りして社会の根本的な部分に近づいているという意味にも取れる。

などと様々な見方や捉え方に対して配慮していたらキリがないので、スパッと本題を言おう。


「そんなに毎日ブログにアップするような写真があるだろうか?」


これが、疑問だ。

昔々、毎日ブログに写真を載せていた頃にふと、義務感のような感情を自分自身で察することがあった。

自己承認欲求が人一倍強い状態であることも重々承知していたが、それにしても、一体、何のために写真を撮るのだろうと、我に返ってしまうことがあった。
この感情は整理されないまま、今日この場で拗らせるにまで至っている。


人との付き合いが大切なら、カメラは置いて、面と向かって目を見て相手と語れば良いのではなかろうか。

伝えたい光景があるのなら、もっとその場に集中すべきではないか。

ウケの良い写真が良いのなら、素材集を買ってアップロードしていけば良いのではなかろうか。


疑問に疑問を投げかけてみたところで、何かが見つかるわけではない。


今の私は、毎日の写真の熱狂から外に飛び出して、また再び写真の中へ入ろうとしている。


そしてどうやら、中に入るための合言葉を失ってしまったようである。


2015/01/03

烏の雛の話

Leica M3, Summicron 5cm/f2, INFORD DELTA 400

昨日は久々に、ライカを手に取って、粉雪舞う東京の街へ出掛けました。

声を掛けるなんて造作も無いことなのに、私の撮影スタイルはそうではないわけですから、結局いつものように、ただ一人の傍観者であり続けるだけでした。


50mmの視野の中で、ただ景色を捉えるだけの一日。

薄暗い部屋の中で、ただ肌を重ねるだけ一日。

人の前に見せることの出来る写真と、人の前で話すことのない事柄。

頭の中で結論を出すつもりのない話を鎖で繋いで輪っかにして、ただ一瞬の快楽だけを追い求めることを円の真ん中に置いて、人の少ない街の中をただただ歩くだけでした。

時折吹く冷たい風に、思わず首元のフードに付いた黒いファーを触ると、ふと頭の中に一羽のカラスの雛が思い浮かびました。


どこで聞いたか忘れましたが、カラスの雛を育てた話を思い出したのです。


カラスの雛は何かの拍子に巣から落ちてしまいます。
その雛は巣に戻らずとも巣立っていきますが、心配した人がしばらく保護をすることも少なくないそうです。

カラスの雛は人の家で餌をもらい、人懐こく家人の肩から肩へ止まって愛嬌を振りまきますが、ある日突然、家の外へ大きく羽ばたき、上空を二回ほど旋回して、そして、二度と姿を見せることはありませんでした。


そのカラスのように、たまたま、人の愛に満たされて過ごす時間もあるでしょう。

しかし結局は、カラスはカラスの寿命を全うするために羽ばたきます。そうでなければ、生きることが満たされないからです。


有名なゲシュタルトの祈りを引用し、取り止めの無い話を収束させていきましょう。

私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。


私は私、貴方は貴方、そうであることは、素晴らしいこと。

そうであるならば、たとえ一人になったとしても、それは孤独とは呼びません。


写真は孤独な作業だと良く聞きます。
だからといって人や評価を気にするようでは、孤独は埋められても写真を撮る意味は満たされないのかもしれません。

巣から落ちたカラスの雛のように、可哀想に見えるかもしれません、何も出来ないように見えるかもしれません、孤独に思えるかもしれません。

しかしながら、例えそれで餌が与えられようと、与えられまいと、カラスはカラスとして、やがて空へ羽ばたいていくのです。

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